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『あおとさくら』試読版公開🌸最高にピュアな青春ボーイミーツガール

1.さくらの季節

 すでにピークを過ぎた桜の花が、風に煽られて宙を舞う。つい先日まで綺麗な花をたくさんつけていたのに、と思うほどに物悲しい。それでも桜は美しく立ったまま、道行く人を見守っていた。
 浮き足立つ生徒たちは春の柔らかな日差しの下、楽しそうな笑みを浮かべている。
 絵に描いたような清々しい新学期の風景だ。
 クラスも変わり、新たな人間関係を構築していく環境に胸を躍らせ、それを糧に青春を彩っていく。そんな教室内には明るい声が飛び交い、ホームルームまで止むことはなかった。
 始業式の日程は午前中には終了し、昼過ぎには下校時間となる。
 春の陽気に当てられ全体的に気分が高揚して浮ついた学校に胸やけがしてきた僕は、その日の日程が終わり次第、逃げるように校門をくぐって学校を後にする。
 マイノリティとはいえ、そういった生徒は一定数いるし、僕だけが特段目立つわけではない。同じクラスの人間が誰でどんな人物でどういったコミュニティが形成されていくのか、なんて僕にとってはどうでもいいことだ。
 どうせ、関わることなんてほとんどないのだから。
 毛色が違うだけで、僕も普通の高校生の一人だった。
 見晴らしの良い土手をゆらゆらと歩いていく。どこもかしこも春色に染まって、浮き足立った雰囲気が漂っているけれど、別に春自体が嫌いなわけじゃない。のどかに晴れた青空の下を歩くのは気持ちが良いし、春の匂いは好きだった。
 麗らかな空の下をぼうっと歩くのが、僕にとっての春の楽しみの一つだ。
 段々と自分が世界に溶け込んで、その輪郭が曖昧になっていく感じがして。あまりにはっきりとした境界は、ただ自分を苦しめるだけだから。
 白い雲が流れる方向に歩いていくと、目的地である図書館に着いた。
 この公立図書館は蔵書数こそさほど多くないものの、妙に目を惹く特徴的な本が多く置いてある。僕はその選定基準が気に入っていた。
 それに、この図書館は一年を通して人が少なく、生い茂った木々に覆われて陰った建物が、僕にとっては魅力的だった。ある種、ここは僕にとっての隠れ家だ。
 ここには一年半ほど前から通っている。
 僕は部活にも入っておらず、塾にも通っていなかったので、放課後は専らここで読書に耽るのが習慣だった。ほとんど毎日ここに通っているので、図書館の人も僕のことを空気みたいな存在だと思い始めているかもしれない。もしくは図書館の精、いや、どちらかと言えば妖怪か。
 入館すると、迷うことなく本棚の隙間を縫って館内の突き当たりまで進む。館内奥にひっそりと設置された四人掛けのテーブルが、僕の特等席だ。右手側、窓際の席にスクールバッグを置いておく。
 ただでさえ人の少ない図書館だから、この席が埋まっていることは滅多になかった。まるで僕の為にこの席が設けられているみたいで、どこよりも居心地の良い場所だ。
 いつものように本棚を回って、何冊か小説を見繕って席に着く。
 小さい図書館なので一年半も入り浸っていれば、どこの棚にどんな本があるのか、大抵のことは記憶してしまっていた。この図書館に限っては僕はソムリエぶったことができる。だけど、それを披露する相手がいないのが残念だ。
 持ってきた本のページをめくると、僕はすぐに本の世界に沈んでいく。なぞった文章が意識に流れ込んできて、物語を脳が補完していく。いつもの通り、僕は本を読み耽っていた。
 本当に集中して読んでいると時間を忘れてしまい、閉館時間が近づいて職員さんに声をかけられることも多々あった。それほど、本の中の世界は僕にとって魅力的だった。
 平日の昼間ということもあって、いつにも増して館内は静かだった。たまに聞こえてくる足音や物音が心地良く、平穏を象徴したような時間だ。
 しばらくその時間に浸っていると、僕の意識をかき乱すノイズが聞こえてきた。
 たったた、たたったた、たったった。
 僕の意識は徐々に本の世界から遠のいていく。
 誰だ、図書館でこんな軽快な足音を響かせているのは。
 開いていた本にスピンを挟んで閉じる。足音の主はすぐ近くにいるみたいだ。自分の居場所を荒らされているみたいな気分だった。というか、普通に図書館の利用法として正しくない。
 文句の一つでも言ってやろうか、と僕は振り向く。
「ここ、座ってもいいですか?」
 僕が振り向いたのと同時に、足音の主であろう少女は声をかけてきた。周りにはこの少女以外人は見当たらない。声をかけようとした矢先に逆に話しかけられたことで、僕は戸惑い小さく呻くような声を漏らした。
 制服に身を包んだ少女は、僕の顔をじっと見ている。着ている制服から、同じ町にある私立の進学校の生徒であることはわかる。
「おーい、聞こえてますか?」
 少女は僕の顔を覗き込むように尋ねる。僕はその視線を切り、黙って頷いた。
 僕は手元の本に顔を向けたまま、正面の席に腰かけた少女をちらと見る。色素の薄い茶色がかった髪は肩にかかっており、肌は雪のように白い。ぴんと伸びた背筋と、すらっと長い指に飾り気のない爪。つくりものの人形のように綺麗な子だ。
 なんなんだこいつ。
 疑問は溢れんばかりに僕の頭をぐるぐると巡っていた。どうして僕の前に座る必要があったんだ。席ならいくらでも空いているだろうに。普通の人間なら混んでいない限り、知らない人のいる席にわざわざ座ったりしない。というか、どうして図書館であんな軽快な足音を立てていたんだ。上手く現状を処理できなくて、文句を言ってやることもできなかった。
 今までこんな子を、図書館で見かけたことがあっただろうか?
 記憶を辿っても、いまいちぴんと来ない。そもそも僕はあまり他人を見ないから自分の記憶は頼りにならなかった。
 いつもの一人の空間に、知らない人間が一人座っている。まるで自分の部屋に正体不明の異物が居座っているかのような不安が僕を襲った。あまりの居心地の悪さと消化しきれない疑問から、僕は少女に問う。
「何でここに座っているんですか」
 嫌みっぽい言い方になってしまったかもしれないけど、仕方がない。僕の正直な感想だった。
「……本を読みたいからだよ。だってここ、図書館でしょ?」
 少女はふふっといたずらっぽく笑う。向けられた笑顔に、僕は少しそわそわした。
「それは見ればわかります。何でわざわざこの席に」
「ここに座りたかったから座っただけだよ、窓際で気持ちがいいし。君だってそうでしょ?」
 確かにそうなんだけど、普通の感覚ならいくらでも席が空いているときにわざわざ人のいるところには座らないと思う。僕は特に言い返す言葉も見つからず、黙り込んで手元の本に視線を移す。変な奴に絡まれてしまったものだ。
 結局その子は閉館時間が近づく頃まで僕の向かいの席に居座っていた。
 案の定、落ち着いて本を読むことができなかったし、目の前の少女は何か裏の目的を隠し持っているんじゃないかという考えが巡ってどうしようもなかった。
 少女の登場によって、この日の特等席は自分の居場所としての機能をまるっきり失っていた。とんだイレギュラーだ。
 まあ、どうせ今日だけの問題だろう。明日になればこの席はいつも通りの平穏を取り戻しているだろうし、運が悪かったと諦めることにした。
 明日には普段通りの日常が戻ってくることを切に願う。学校にも、自宅にも、自分の居場所と呼べる場所がない僕にとって、この空間はなくてはならないものだ。
 僕が本を書棚に返して戻ってくると、そこにはもう誰もいなかった。満足したのか飽きたのかはわからないけど、帰ったのだろう。結局、初めに言葉を交わして以降、話しかけてくることはなかった。本当に、ただあの席に座りたい気分だっただけなのだろうか。
 さっきまでの息苦しさをため息に乗せて吐き出す。外に出ると陽はほとんど落ちていた。ゆっくりと、今日出会ったあの子について考えながら帰路に就く。他人のことをこうして考えるのは、いつ振りだろうか。
 町を歩く人たちを見やれば、そのほとんどがそれぞれの帰路に就いている様子だった。買い物帰りでレジ袋を持った主婦、かつかつと革靴を鳴らすサラリーマン、自転車に乗り集団で通り過ぎていく小学生。
 皆、自分の帰るべき場所に帰っているのだ。僕は違う。僕だけが世界に取り残されているみたいだった。
 吐き出すあてのない気持ちから目を背けるように、ただ薄暗く染まった空を眺めて帰った。

次の日の放課後、図書館に行くと昨日のあの子がいた。
 僕より早く、しかも僕がいつも座っている席に。
 僕の心中など気にもしないように少女はまた声をかけてくる。
「あっ、また来たんだ」
 まるで友人に向けるような笑顔だ。また来たんだ、ってそれはこっちのセリフなんだけど。
 底抜けに明るいその笑顔に、僕は苛立ちを覚える。
 笑いかけてくる少女を無視していつもの席を通り過ぎ、少し離れた席に座る。座り慣れない席で少し落ち着かないけど、仕方がない。
 僕が座るとすぐ後を追いかけてくるように少女もやってきて、隣の席に腰を下ろす。
「……何でそこに?」
「何でって、別にどこに座ったって自由でしょ?」
 からかうように少女は言った。
 僕のことを馬鹿にしているんだろうか。
 僕は鞄を持って、空席になったいつもの場所へ向かう。いつもの席は取り戻したけど、やっぱり少女は僕についてきて、向かい合う席に腰かけた。新手のストーカーか何かだろうか。
「何で逃げるの?」
「ここ、いつも僕が座ってる席だけど、君がいたから仕方なくあっちに行ったんだ。そしたら君がついて来ていつもの席が空いた。だから戻ってきた、それだけだよ」
 ふうん、と少女は不思議そうに息を漏らす。不思議な思いをしているのはこっちの方だ。
「何でついてくる」
 僕は問う。なぜ逃げるのか訊かれたけど、意味のわからない女子につきまとわれたら逃げるのも当然だろ、と心の中で毒づいた。
「さて、どうしてでしょう」
 彼女はにやりと笑って、手元の本を開いた。
 もう、相手をするだけ時間の無駄だ。放っておけばどこかに行くだろう。……と思ったけど昨日もこいつは居座り続けたんだった。

「どうして今日もいるんだ」
 再度、僕は問う。
 いい加減、彼女の不可解な言動に頭を悩ますのも疲れてきた。
 今日になればまたいつもの静かで落ち着く場所に戻っている予定だったのに。誰にも邪魔されない場所だったのに、どうしてこんなことに。まったく、はた迷惑な奴だ。
「だから、本を読みに来たんだってば。それ以外に図書館に来る理由ってないでしょう?」
 とぼけた調子で彼女は言う。まあ、もっともな回答ではあるけど。
「いや、僕が訊きたいのはだな、どうして僕と同じテーブルに着くのかってことなんだよ。席なら余りに余っているじゃないか。どうして他人がいる席をわざわざ選ぶんだよ」
「何となくだよ。一人で読んでたって……何だか寂しいでしょ」
 彼女は持っていた本を開いたまま机に置いて、僕の目を見る。
 大きな目だ。何を食べていたらこうなるんだってくらい、透明感があって目鼻立ちも整っている。
 何となく目を合わせていることが憚られて、僕はすっと視線を逸らした。元々人と目を合わせて話すのは、そんなに得意じゃない。
「普通は一人で静かに読むもんなんだよ。君の感覚がずれてるんだ」
「普通って誰が決めた普通なの。君の言う普通は本当に普通なの?」
 なんなんだ本当に。どうしてこんな屁理屈を押し付けてくる必要があるんだ。
 厄介な人間に絡まれてしまった。だけど、僕はこの場を意地でも離れたくなかった。ここで負けたら、この図書館から居場所を奪われてしまうかもしれない。この場所だけはどうしても譲れなかった。
「いいか、大前提として人に迷惑はかけちゃ駄目なんだ。僕は君が付きまとうから、困っている。じゃあ、どうすればいいかわかるだろ」
「うん、わかるよ。ごめんね、うるさくして。静かにするからもう気にしないで」
 そう言って少女は置いていた本を取り上げて、続きを読み始めた。
 自分の席は取り戻したものの、本来の目的はそこじゃなかった気がする。けれどあまりに不毛なやり取りをしたせいで、僕も段々どうでもよくなってきていた。
 渋々、少女が僕の前に居座り続けることを黙認して、昨日読みかけだった本を取りに行った。
 本を持って席に戻ると、こちらをちらと見た少女と一瞬だけ目が合う。慌てて本に視線を戻した彼女を見て、僕は目を細めた。何を考えているのか知らないけど、集中した振りをしているだけなのはわかる。
 少女の意味不明な動きを無視して席に着き、僕は持ってきた本を開く。館内は今日も静かだった。気づけば僕は物語に没頭して、顔を上げた時には二時間近く経過していた。
 どうしてか、昨日と同じシチュエーションなのに集中して読むことができた。
 流石に二日続けて居座られると、僕の方が慣れてきたのかもしれない。変に意識しすぎないことが重要なのだろう。目の前に人型のオブジェがあると思えばいいのだ。
 それどころか意外なことに、他人がページをめくる音や衣擦れの音が妙に心地良く感じた。会話は嚙み合わなかったけど、こうして静かに過ごす時間はどうしてかしっくり来ていた。
 時間が過ぎ、今日もまた日が暮れていく。窓の外を見れば、図書館から少し離れたところを車両の少ない電車が走っている。夕日に照らされて複雑な色味に染まった雲は、薄暗い空を風の吹くままに流れていった。世界が陽の光に溶けていき、混ざることで夜の黒を作っているんじゃないだろうか。だからこそ、それが混ざり合っていく夕暮れは高揚感に近い不思議な感覚を持って心に沁み込んでくる。
「日、暮れてきたね」
 少女も僕と同じように窓の外を見やって言う。二時間振りに聞いた彼女の声は、今までの印象とどこか違うように聞こえた。
 その顔が窓から差し込む夕暮れの微かな光に当てられて橙に染まる。
 綺麗だな、と思った。
 別に顔の良し悪しの話ではない。ただ単純に、存在として、造形として、光景として、綺麗だなと思った。日が暮れていくにつれて、光は彼女の顔から輪郭を沿うようにして消えていく。
 外が夜に染まった頃、彼女はまた口を開いた。
「私の名前、教えてあげよっか」
 今度は僕の中にある印象のままの笑顔と雰囲気だ。
「いいよ、別に」
 どっちでもいいなら教えてあげよう、と彼女は得意げに言う。こういう意図は読み取れるんだな。どこまでがおふざけでどこからが真剣なのか、いまいち掴みどころがない。
「私は日高咲良。この春で高校二年生になったの。部活は入っていなくて、趣味は……散歩?」
「ご丁寧に訊いてないことまでどうも。というか、何で疑問形なんだ」
 部活をしていないのは少し意外だった。活発そうだからてっきり運動部にでも入っているのかと。いや、よく考えたら部活をしている人間が放課後にこんなところで時間を潰すことはないか。趣味が散歩っていうのも取ってつけたようなもんだろうし、実質彼女のことは名前と学年のことだけしかわからなかった。
「ねえ、君の名前も教えてよ」
 僕は渋ったけど、答えない理由も後ろめたいこともないので、教えておくことにした。
「藤枝蒼」
「へえ、ふじえだあお君か。綺麗な名前だね」
 どうも、と答えておく。面と向かって名前を呼ばれるのが、どうにもむず痒く感じた。あまり顔に出るタイプじゃなくて助かった。
「あお君も高校生だよね。何年生?」
「あお君って呼ぶな。……二年生だけど」
「あっ、じゃあ同い年だね!」
 僕はしいっと口元で人差し指を立てる。閉館時間が近いとはいえ、大きな声を出していいわけではない。僕と同じように人差し指を口元で立てた後、日高咲良は話を広げようとする。また大きな声を出されて職員さんに注意を受けるのも申し訳ないので、外で話そうと彼女に告げて、僕たちは図書館を後にする。ここで話を終わらせなかったのが僕らしくないことに、外で話そうと告げてから気がついた。
 日高さんは自転車で来ているらしいので、駐輪場に向かうことにした。街灯にぼんやりと照らされた下で、彼女は話の続きを始めた。風が僕らの間を通り抜けていく。春の風はまだ少し肌寒い。
「藤枝君は部活とか入ってないの?」
「いいや、入ってない」
「だよね、そんな感じするよ」
 納得したように彼女は頷く。僕が部活に入っているような人間に見えないということか。だとしたら失礼な話だけど、事実だから言い返せない。
「じゃあ、藤枝君。趣味は?」
 一体何のインタビューなんだろうか。彼女は僕の顔にマイクを近づけるように握った手を突き出してくる。僕はそれを軽く払いのけ、答える。
「読書」
「うーん、そのまんまだね」
 そのままで何が悪い。
「いつも図書館にいるの?」
「そうだよ」
「飽きないの?」
「飽きないよ」
 落ち着いて過ごせる唯一の場所と言っていい所に、飽きるも飽きないもない。それに、僕には本当に読書以外の趣味がないのだ。自分でもつまらない人間だとは思うけれど。
 そんなつまらない人間に、日高さんはまた質問を投げてくる。そっちこそ、これだけ素っ気ない返事をされて飽きないのだろうか。
「ここの図書館気に入ってるんだね。学校の図書館じゃ駄目なの?」
「蔵書数が少ないんだよ。それに、学校の図書館は勉強する振りをしている人やカップルたちが蔓延ってるだろう。あんまり居心地の良い空間とは言えないな」
「随分変わった見方をするんだね」
 日高さんは苦笑する。
「それ、嫌みだろ」
「オブラートに包んでるんだよ」
 実際図書館は本を読むための施設なんだから、僕が言っていることは間違ってはないと思うけど。まあ、捻くれていることもちゃんと自覚してはいる。
「人には人の青春があるんだよ、あお君。青春といえば、あお君は青春してないの? あおだけに」
 おやじギャグかよ。僕は眉をひそめて答える。
「あおはそのあおじゃないし、青春をするつもりも、できる気もしてない。というか、その呼び方やめろって言ったろ」
 まあまあ、と日高さんは僕をなだめるように手を振った。
「青春の青じゃないんだね。話は変わるけど、何で青い春で青春なんだろうね。どっちかというと青春のイメージはピンク色に近いと思うんだけど。皆疑問に思わないのかな」
「多分だけど、ほとんどの人がそんなこと気にもならないくらい各々の青春を生きているからだと思うよ」
「なるほど」
 ふむふむと日高さんは頷く。さっきから身振り手振りがいちいち大げさな気がしている。つまりは動きがうるさいのだ。
「で、どのあおなの?」
「草冠に倉、で蒼だよ。というか、自分で話を変えたんだろ」
「いやあ、冗談だよ。ごめんね」
 はははと笑って日高さんは誤魔化す。不自然なくらい陽気な人だな。まあ女子高生なんてこんなものか。学校で人と関わろうとしない僕は、周りがどんな調子で人と話をしているのかを見失っていた。
「それにしても、藤枝君笑ってくれないね。早く打ち解けようと結構頑張ったんだけどな」
「一連の不可解な言動は狙ってたのかよ……。だとしたら随分空回ってたし、あんなわかりづらい冗談で笑う人はいないだろ」
「うーん……、上手くいかないものだね」
 残念そうに笑う日高さんを見ていると、くすりともしなかった自分が悪い気がしてくる。笑えないのも、仕方ないことなんだけど。
 日高さんは顎に手を当てて何かを考える姿勢をとる。一体何を考えているのかわからないが、僕はそれを見守ることにした。しかし考え込んだのも束の間で、日高さんは何気なく言った。
「どうやったら藤枝君は笑ってくれるのかな」
「別に、打ち解けるだけなら笑わなくてもいいだろ」
 なんか目的がすり替わってないか? 変人の思考は僕には理解できない。
「それもそうなんだけど、どうせなら笑ってくれる方が嬉しいでしょ? ねえ、藤枝君はどうやったら笑ってくれるの?」 
 日高さんは繰り返す。
 どうやったら笑える、か。本当は話すつもりなんてなかったんだけど、春の夜に惑わされたせいか、それとも心のどこかで日高さんになら言っても大丈夫だと思ったのか、気づけば僕は口を滑らせていた。
「残念だけど、僕は笑えないんだ」
 日高さんは一瞬目を丸くして言葉に詰まる。それもそうだ、急にこんなことを言われたって、困るに決まっている。
「……笑えないっていうのは、つまり笑えないってこと?」
「ああ、そうだよ。僕は笑えないんだ」
「日常で面白いことがあっても?」
 僕は首肯する。
「お笑い番組を見ても? 面白いアニメや映画を見ても?」
 再び首肯する。
「どんな小説や物語を読んでも?」
 全てに頷く。
「文字通り、笑えないんだよ。信じられないかもしれないけど」
 別に、信じてほしいとも思わない。
 何を見ても、何が起こっても、くすりとも笑えないなんて、普通じゃないから。ある時期をきっかけに僕はそうなった。面白いことがあっても、自分の中でそれに反応する部分が欠けてしまっている感じがして、笑えない。表情にも出ないし、まるで笑いに関する感情の出力口に蓋がされてしまったみたいに、僕はそれを失ってしまった。
「苦笑いとか、泣き笑いとか、愛想笑いも?」
「そうだよ。呪いみたいなもんさ、自分でもおかしいと思うよ」
 言ってから、少し後悔した。出会って二日目の人間にいきなりこんなことを打ち明けられたって、冗談にしか思えないだろう。痛い人だと思われても仕方がない。
 僕がこれを彼女に話したのは多分、ただ抱えているものを吐き出したかったからに過ぎない。
もう随分、誰にも話していなかったのに。仮に誰かに話したとして、気を使わせたり憐れみの目で見られるのはわかりきっている。
 酷い言い方をすれば、ちょうどいいところに、ちょうどいい関係性の日高さんが現れたから利用しただけ。
 これから先、何度顔を合わすのかもわからないし、今日が終わればもう会うこともないかもしれない。学校も違うから、どちらかが図書館に来なくなれば終わってしまう関係だ。
 そんな関係性だから、僕はきっとこぼしてしまったのだ。
「変な話してごめん、忘れてくれ」
 こういう時に誤魔化すための愛想笑いもできない自分が、心底滑稽に思えてくる。
 日高さんは少しだけ俯いて、何かを考えているみたいだった。なんと答えればいいか迷っているのだろう。
 僕がじっと彼女の反応を待っていると、日高さんは急に顔を上げてふふと笑い、沈黙を破った。
「やっぱり君、変な人だね」

それから日高さんは僕にいくつかの質問をした。
 その全てが僕が笑えない、ということに関するものだった。僕はそれに一つずつ、ちゃんと答える。
 中学二年生の夏、それまで当たり前に笑えていたのに、急に笑えなくなったこと。友達は心配してくれたけど、気を使わせるからと自分から少しずつ離れていったこと。どちらかと言えば明るかった性格が、段々と内向的になっていったこと。もう人間関係で相手も自分も失望させないために、人と距離を置くようにしたこと。そうすることで、たくさんのことを諦めたこと。諦めることに慣れてしまったこと。
 内側に溜まっていたものが決壊して流れ出すように、僕は自分の身に起こったことを日高さんに吐き出していった。
 全くもって面白い話でもないのに、日高さんは真剣に聞いてくれた。それどころか、どこかしらに興味を持ったらしく、むしろ彼女の方から臆することなく僕に質問を投げかけてくれた。思ってもない反応だった。大抵の人は、変に気を使ったり、僕の言っていることを冗談だと思って無理にでも笑わせようとしたり、藤枝蒼は変人で暗い奴であるとからかったりする。
 だけど日高さんの反応はすごく新鮮だったし、僕からすれば疑問で仕方のないものだった。
それでもこうして話を聞いてくれて、僕の心は少しだけ救われた気持ちになりつつある。自分ではもう慣れたつもりでも、弱い部分は弱いまま残っていたらしい。
 彼女は僕のことを変な人だと言った。だけど僕からすれば、こんな唐突で厄介な話をされても真剣に聞いてくれる日高さんの方がよっぽど変人だと思う。
 一通り話したところで、猛烈に自分がべらべらと喋ってしまったことが恥ずかしくなってきた。僕はほぼ初対面の子に何を話しているんだ。自分の悩みを打ち明けることで楽になろうとしていたのかもしれない。
 僕が自己嫌悪で頭を掻きむしっていると、日高さんは優しく笑って僕を見た。その表情に少しだけたじろいでしまう。
「じゃあ、藤枝君……私が君を笑わせてあげる」
「え?」
 あまりに唐突な申し出に、僕は間の抜けた声を出してしまう。多分、他人が見たら笑ってしまうくらい唖然としていたと思う。
「笑わせるって、いや」
「ん? 駄目なの?」
 日高さんは首を傾げて不思議そうに言った。
「だから、僕は笑えないんだよ。今更笑いたいと思ってるわけでもないし……話聞いてたのか?」
「もちろん聞いてたよ。その上で、私は藤枝君を笑わせてみたいの。だから、もう一度藤枝君が笑えるようになるまで、協力する。私、これでも頑固だから。決めたことは曲げないの」
 満面の笑みでそう言ってくるけど、口振りからして僕の了承なんて無視して強行するみたいだ。変人どころじゃない、こいつ大変人だ。
「だから無理だったんだって。僕だって色々やってみたけどさ、もう自分の中で諦めはついてるんだよ」
「本当に諦めついてるの? 本当の本当に、もう二度と笑えなくていいの?」
 初めて見る日高さんの強い圧に僕は簡単に押し負ける。何で他人ごとにそんなに首を突っ込んでくるんだ。日高さんには何も関係のないことじゃないか。
「そ、それは……」
 僕が答えを迷っていると、日高さんは再びにこやかに笑う。表情の切り替わりにメリハリがあり過ぎて少し怖い。穏やかな微笑みを保ったまま、彼女は言う。
「私にも手伝わせて、ね?」
 僕は大きく息を吐いて空を見上げる。今日の空は雲が少なくて浮かぶ星々が明瞭に見えた。
 どうせ、変人の気まぐれに過ぎないんだろう。断ったって難癖付けて首を突っ込んでくるのだろうし、勝手にやらせておいた方が良さそうだ。
 あまりに唐突だ。それにも拘わらず、動き出した人生の歯車がぎしぎしと音を立てる。噛み合ってるのか噛み合っていないのかわからないそれに、僕は大きな不安を抱く。けれど同時に、どこか期待をしている自分がいた。
 そういえば、人とまともに喋るっていうのは、こんな感じだったっけ。久しぶりにまともに話した人が、よりによってとんでもない変人だなんて。彼女が僕をどこへ導こうとしているのか、それはわからない。
 けれど日高咲良との出会いが、静かで代わり映えのない僕の生活に波紋を生んだのは確かだ。

つづく

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